空

EpisodeT「Take Me to the HomePage」

某年秋
男はある決意を胸に、ネットの海を泳いでいた。押し寄せる波に足掻き、渦巻く潮に逆らい、果てしなく広がる海原を彷徨い続けた。情報はまるで瞬く星の如く、数限りなく男の前に現れて、そして消えていった。一つ、また一つ・・それぞれが男に語りかけ、そして最後には男を失望させた。
「長野にはいいカラオケサークル無いなぁ」
画面を見ながら男は一人呟くと、また新しい海原へと足を踏み入れていった。

男は遠く故郷を離れて暮らしていたが、訳あって数年前に故郷に戻ってきていた。再び暮らす事になった故郷で思うことはただ一つ、

「寒っ」

雪も滅多に降らない場所で長く生活していた男にとって、「チェーン」「スタッドレス」という言葉はどことなく異国情緒溢れる響きでさえあった。

新しい職場、新しい友人、新しい生活が始まり、幾度か冬を越した。しかし、男の中に湧き上がる思いは、それで埋まることはなかった。
「俺の歌を聞け〜!」
マイクを持つ手に力を込め、肺の中の空気全てを搾り出して、酸欠で顔を真っ赤にしながら、それでも男は歌い続けた。居酒屋の片隅、そこが男の聖域だった。

自己満足からの脱却。いつからか心に芽生えた「純粋な歌へのこだわり」。誰よりも強く、高く、遠くへ・・そのために、男は場所を探し始めた。戦うためのリングに立つために。

しかし、海原は果てしなく、そして残酷なほど冷たかった。

幾度も期待し、同じ数の失望を重ね、男はとことんまで打ちのめされていた。
「歌って踊れるサラリーマンなんて、やっぱり無理だったんだ」
聖域で男は深夜まで叫び、喰らい、そして最後には涙した。涙を拭いて男は店を出た。その背中に冬の気配が混じった夜風が容赦無く襲い掛かった。

「寒っ」

寒さに体を縮め、足早に車へと向かいながら、その時男は無意識に「野ばら」を口ずさんでいた。遥か昔、小学生だった頃の記憶だけを頼りに、たどたどしいドイツ語で・・
「ん・・?」
男は自分の口ずさんだメロディに気が付き、そして思い立ったように叫んだ。
「そうだ、カラオケだけが歌じゃない!」
打ちひしがれていた男をマイクという呪縛から解き放ったのは、顔も名前も思い出せない音楽の先生が奏でたピアノの旋律と、初恋の女の子のはにかんだ笑顔だった。「野ばら」を口ずさみながら、男は満面の笑みを浮かべ、まだ見ぬ合唱の世界に向けてアクセルを吹かした。

早速、男は画面に新しいキーワードを打ち込んだ。
「長野」そして「合唱」
いくつかの合唱団の名前が並び、それを真剣な面持ちで見つめる男は、意を決して一つの扉を開いた。

『長野市民合唱団コールアカデミー』

これこそが運命の悪戯であり、そして伝説の始まりであることは、後の世が証明してくれることだろう。

EpisodeUに続く…


※この物語は実話を元にしていますが、JAROに訴えられそうな位誇張してあります(汗)