空

EpisodeU「Take Me to Shiozawa Hall」

某年秋のとある水曜日
滅多に見ることのない真剣なまなざしで、男は時計の針を見つめていた。
「まだか…」
就業時間の終了を、男は今か今かと待ち続けていた。理由はただ一つ。
『長野市民合唱団コールアカデミー』に見学に向かうためだった。

男は朝からそわそわして、まるで仕事が手につかない状態だったが、日頃からいい加減な仕事ぶりだったために、幸いにも同僚が異常に気付くことはなかった。

男は生まれてこの方、合唱という世界に縁がなかった。
小学校で、大嫌いだった娘が合唱部に居たからかも知れない。
中学校で、たまたま前の席にいた男に誘われ、剣道部に入ったからかも知れない。
高校に合唱班がある事を知らなかったからかも知れない。
大学で…まあ、長くなるので止そう。

とにかく、男はまるで知識の欠片もない『ど素人』であった。それ故、男には合唱の練習風景とはどういうものなのか、まるで想像できなかった。
「髪を振り乱した指揮者がいるのは間違いない」
「みんな白い服を着て、私語一つなく、まっすぐ前を見て歌ってるんだろう」
「音を間違えると指揮棒で叩かれるかも・・」
そんな時代錯誤もはなはだしい想像を、定時の鐘がかきけした。
「時は来た…」
男はすっくと立ち上がると、颯爽とした足取りで家路を急いだ。車に乗り込み、そしてキーを回す。低く心地よい鼓動が男の全身を包み込んだ。

『行くぜ!』

タイヤが軋む音だけを残して、男は風になった。


しかし、合唱の神様は厳しかった。


ホームページに載っていた地図を頼りに車を運転する男に、最初の試練が待ち構えていた。元々あまり土地勘のある地域ではなかったことが災いした。更に、概略図の欠点である「道幅や距離が把握し辛い」が追い討ちをかけた。
「塩沢ホールはどこだ!!!」
県庁から門前プラザまでの間の狭いエリアを一回り、二周り。不安になって地図を見直してみたが、謎は深まるばかり。更にもう一回りした挙句、ついに男は意を決っして大通りに面した細い小道へとハンドルを切った。車が入れ違う事すら困難に見える狭い道を、男は右に左に器用に進み続けた。やがて行き着いた先は小さな駐車場。そこで男は進むべき道を失った。薄暗い秋空を見上げても、見えるのはひっそりとたたずむ建物の影ばかり。
「帰ろう・・」
ため息交じりに呟いた男は、車をUターンさせた。

だが、踵を返したその時、男の視界の片隅を小さな看板が掠めた。一瞬の出来事で、よくは見えなかった。だが、少し気になった。
「まさか・・」
車を戻し、窓越しに看板を見つめると、そこにはかすれた文字で「コールアカデミー」と書かれていた。慌てて近くの駐車場に車を止め、看板まで戻ると、男は恐る恐る辺りを見回した。

『ぽっ』

暗がりの空の下、駐車場の脇、ひと一人がやっと通れるような小道の先。そこに男は小さな灯りを見つけた。

『塩沢ホール』

これこそが運命の悪戯であり、そして伝説の始まりであることは、後の世が証明してくれることだろう。

EpisodeVに続く…

※この物語は実話を元にしていますが、JAROに訴えられそうな位誇張してあります(汗)