空

EpisodeV「Take Me to ANKIMOTEI」

某年秋のとある水曜の夜
男は苦難の末、ついに塩沢ホールにたどり着いた。長かった…会社を出たのが遥か遠い昔のように思える。扉を見つめる男の顔は達成感に満ち溢れ、その頬を一筋の涙が伝った。足音を殺してそっと扉に近づき、慎重に手をかけると、小さな扉のその向こう側から微かに歌声が響いてきた。練習は既に始まっていたのだ。
「みんなが俺を待っている」
自惚れも甚だしい台詞を胸に、男は力を込めて扉を開いた。

『ガラガラガラ…』

「失礼します」
小さな音を立てて扉は開いた。そして小心者の男の「これでもか」というくらい控えめな声が内部に響いた。
「てなぁの方ですか?」
男に気が付いた女性が声をかけてくれたが、しかし男に「てなぁ」は難しすぎた。
「てなぁ?いえ、あの、見学に来たんですが…」
既にしどろもどろの返答になっていた男だが、事前に「見学希望」のメールをしていたおかげで、意志の疎通にそれほど苦労はなく、幾つかのやりとりの後、男は後ろで見学する事となった。
「備えあれば憂いなし」とは、まさしくこれを指すのであろう。

『長野市民合唱団コールアカデミー』は定期演奏会を間近に控え、本番さながらの雰囲気で練習していた。曲目は『白き花鳥図』

女性に譜面を手渡され、早速それを開く…そこには未知の記号で描かれた暗号が所狭しと並び、悠然と男を挑発していた。
『歌えるものなら歌ってみやがれ!』
植物生まれのくせに、生意気な…男の闘争本能に火がついた。売られた喧嘩は買ってやる。男は鬼のような形相で譜面を睨みつけた。
「むむ…こ、小賢しいまねを…」
男と譜面が火花を散らす事、数分、ついに男は譜面に屈した。
「お前の助けなどいらん!」
男はまるで子供のような捨て台詞を吐いて譜面を閉じた。そして、きちんと整列した団員の後ろに男は陣取り、邪魔にならないように注意しながら見様見真似(聞様聞真似?)で声を出してみた。
「なんとか歌えるじゃん」
根が単純な男である。その心に希望の光が差し込むのに、さほど時間は要らなかった。自分の音程が正しいかどうかも判断できないのに…思い込みとは恐ろしいものである。男の心の中では、既に舞台に立って歌う自分に寄せられるアンコールの声が響いていた。
軽い自己紹介などのハプニングを乗り越え、見学初日を終えた男の横顔には、まるで高く険しい山に挑む登山家のような、期待と不安の入り混じった複雑な表情があった。

初戦から3日が過ぎた。

「東京から先生を御招きして練習するので、良かったら来てください」と言われ、男は土曜の町に繰り出した。太陽と渋滞が苦手な男には少々酷だったが、今度は迷わないで行けるという自信が男を支えた。

そして再び見学。曲目は
『グロリア』

しかし、残念ながら予備の譜面がなかった上に、歌詞がイタリア語では勝負にならない。
「だからイタ飯とフェラーリは嫌いなんだぁ!(でも、ワイン最高♪)」
根が単純な男である。その心に暗雲が立ち込めるのに、さほど時間は要らなかった。どうせ八つ当たりするにしても、もう少し対象を選ぶべきだとは思うが…。男の心の中では、舞台で凍りつく自分に浴びせられる罵倒が響いていた。
「じゃあ、食事にでも行きましょうか」
練習終了後、前回指揮をされていた男性(予想に反し、髪は振り乱していなかった)からのお誘いを受けた。特に用事もなかった男には断る理由などなかった。団員にしっかりと前後を挟まれ、男は「まるで任意同行されているような状態」で夜道を進んだ。南に伸びる細い路地の先、そこで男は小さな看板を見つけた。

『アン肝亭』

これこそが運命の悪戯であり、そして伝説の始まりであることは、後の世が証明してくれることだろう。

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※この物語は実話を元にしていますが、JAROに訴えられそうな位誇張してあります(汗)

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