ライプツィヒ市街地中心部 ライプツィヒ市内 ライプツィヒ近郊の町

ライプツィヒの魅力 - 市街地中心部

ライプツィヒ中央駅を起点にして、徒歩で散策できる市街地中心部を紹介します。
各スポットの「地図と行き方」をクリックすると、道順が表示されます。

1,ライプツィヒ中央駅  地図と行き方

1915年に開業したヨーロッパ最大の頭端式駅(=列車がホームで行き止まりとなる構造の駅)。
ドイツ中部の鉄道交通の要で、ハブ空港ならぬハブ駅。駅舎は重厚で趣があります。

ライプツィヒ中央駅

ライプツィヒ中央駅のホーム

ライプツィヒ中央駅 地下ホーム

2013年の秋に開通した、市街地中心部を通るSバーンの地下ホーム。空港まで14分で行けます。

駅なか商店街プロムナーデン

バッハ音楽祭の期間中は、市をあげての歓迎ムードです。駅ビル型商業施設「プロメナーデン(Promenaden)」は日曜日も開店している店舗が多く、特に日曜日は家族連れで賑わいます。


2,ニコライ教会  地図と行き方

J.S.バッハが「ヨハネ受難曲」を初演した教会。商人の信者が多く、商業の隆盛を反映する豪華な装飾が施されています。バッハは市の音楽総監としてニコライ教会、トーマス教会の両方を監督していました。

ニコライ教会外観

中央駅からニコライ通りをまっすぐ進むと、左側に見えてきます。

ニコライ教会 祭壇側

豪華な装飾が施されています。

ニコライ教会でのバッハ音楽祭

ガーディナ-指揮のモンテヴェルディ合唱団。
私の好きな「ザクセン選帝侯妃追悼カンタータ」BWV198は素晴らしかった!

東西ドイツ統一の記念柱

東ドイツ時代は毎週月曜日ニコライ教会で「平和の祈り」集会が開かれていました。1989年にはその規模が次第に拡大して7万人を超える大規模なデモとなり、とうとうベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一につながりました。その東西ドイツ統一革命の出発点を記念する記念柱が教会の隣に建っています。いつも高校生が先生に引率されて見学する姿が見られます。



3,旧ニコライ学校・ワーグナー博物館  地図と行き方

ニコライ教会の北隣に市立旧ニコライ学校があります。地下にはワーグナー博物館があります。
 ワーグナーはここで学んだあとトーマス教会でルター派の洗礼を受けていて、ライプツィヒ大学でも学んでいます。
ワーグナーは21歳でライプツィヒを去りますが、1862年にゲヴァントハウス・コンサートホールで『序曲「ニュルンベルクのマイスタージンガー」』の初演を自らの指揮で初演しています。

旧ニコライ学校・ワーグナー博物館

ニコライ教会のすぐ北側にあります。青年ワーグナーは1828年から1830年までここで音楽教育を受けました。

旧ニコライ学校・ワーグナー博物館

ワーグナーは勉強よりも劇作に熱中していたようです。展示は小規模ですが、ライプツィヒで生まれ、後に数々の楽劇を創作して巨匠となったワーグナーの若い頃の一面を知ることができます。



4,バンベルガー一家の碑  地図と行き方

オーパー(オペラハウス)の前を通るゲーテ通りからニコライ教会方向に入る角の建物には、TARGO BANKという銀行が入っています。その建物の角柱に、一つの小さな碑が掲げられています。

TARGO BANK の角にある碑文

TARGO BANKにはシティバンクのATMがあって、私は時々利用しました。その銀行の角の柱には碑文が掲げられています。

バンベルガー一家の碑

こう書かれています。「かつてこの家の所有者で、婦人服店を営んでいたバンベルガー一家は、ナチスによって1938年11月9日水晶の夜に破壊され、抹殺された。」

 水晶の夜とはユダヤ人に対する破壊、暴力事件のことです。反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れる中、1938年11月7日パリのドイツ大使館書記官がポーランド系ユダヤ人青年によって銃撃され、9日夕方死亡したことをきっかけに9日夜から10日にかけて反ユダヤ主義暴動が発生して、ドイツ全土でユダヤ人住宅、商店、学校、シナゴーグ(ユダヤ教会)などが襲撃されました。砕け散った窓ガラスが水晶のように輝いたことから「水晶の夜」と呼ばれた事件です。
 ナチス党政権による電話、電報を使った組織的暴動であったことが疑われています。



5,ライプツィヒ大学  地図と行き方

ドイツのアンゲラ・メルケル首相が物理学を学んだこの大学は、1409年創立の大変古い大学です。日本からは森鷗外や朝永振一郎らも新しい科学を求めて留学しています。
音楽家では、テレマン、C.P.E.バッハ、シューマン、ワーグナーなどが学び、そのほかライプニッツ、ゲーテ、ケストナーなど多くの著名人を輩出しています。

ライプツィヒ大学

北側の入口

ライプツィヒ大学

南側のゲヴァントハウス前から見た大学。
右側の三角屋根は大学のパウリナ教会。
ここはJ.S.バッハがザクセン選帝侯妃追悼カンタータBWV198を演奏したほか、メンデルスゾーンの葬儀が行われた教会ですが、残念ながらその教会は1968年東ドイツ政権の政治的パフォーマンスで爆破されました。大学に教会は必要ない、ということだったのでしょうか?

これは新しく再建された教会です。



6,ゲヴァントハウス  地図と行き方

ゲヴァントハウス管弦楽団は宮廷を起源としない市民のためのオーケストラとして、1743年に発足しました。その演奏本拠となったのが、ゲヴァントハウス・ホールです。王侯貴族や教会ではなく、一般市民が生活の場で音楽を楽しむという、現代では普通となった音楽文化がここから生まれました。

現在のゲヴァントハウス・ホール

1981年に完成した、現在の3代目ゲヴァントハウス。

メンデルスゾーンの銅像

 メンデルスゾーンは、ライプツィヒ市からの要請で1835年にゲヴァントハウス管弦楽団の監督に就任します。今日の「指揮者」のような、演奏者全てを監督し、練習し本番に臨むというスタイルを初めて確立しました。
 そして、楽団は1840年に正式に市立オーケストラとなり、メンデルスゾーンによってヨーロッパ屈指の管弦楽団に育て上げられました。
 彼の功績をたたえる銅像は、音楽を愛する聴衆をホール入口で暖かく迎えているようです。

ヘルベルト・ブロムシュテットの写真

日本ではN響公演でおなじみのブロムシュテット。1998年から2005年までゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者でした。(現在は名誉指揮者。またNHK交響楽団名誉指揮者)

初代のゲヴァントハウス

1781年から1894年まで使われた初代ゲヴァントハウスの模型です。織物倉庫(ゲヴァントハウス)を改装したことが、その名の由来です。座席数は約500席。
 この初代のホールではベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」や、ブラームス「ドイツ・レクイエム」など名曲の数々が初演されています。



7,現代史博物館 地図と行き方


現代史博物館の玄関

第二次大戦によるドイツの東西分断、東ドイツ社会主義統一党による圧政と市民の抵抗運動、東西ドイツ統一までの市民生活を展示しています。

入口にある銅像

 博物館前の歩道には奇妙な姿勢の銅像《世紀の一歩》が設置されています。右半身はヒットラーの時代、左半身は東ドイツ時代の東ドイツ国民の苦しみを表現しているそうです。入場は無料。



8,旧市庁舎 地図と行き方

マルクト広場にある旧市庁舎。16世紀に建てられたドイツ・ルネサンス建築。

旧市庁舎

 千年以上にわたる市の歴史や近代工業化の歴史まで展示されていて、ライプツィヒは商業(商業展示会)、書籍・出版、音楽、工業で中心的な役割を果たした街であることがわかります。
 地下には薄暗い牢があります。

J.S.バッハの肖像画(原画)

右手にカノンの楽譜を持って立つ、有名なバッハの肖像画の原画。1階の奥まった部屋に飾られていて、受付でたずねると案内してくれます。

バッハが契約書に署名した円卓

J.S.バッハが1723年5月にライプツィヒ市の音楽監督に就任する際、その契約書に署名した円卓です。円卓の手前に置いてあるのはバッハのサインがある契約書のコピー。



9,ゲーテの像 地図と行き方

旧市庁舎のすぐ裏(東側)の広場に建つ、ライプツィヒ大学学生時代のゲーテ像。

ゲーテの像

顔は大学を向いているが、つま先は酒場のアウアーバッハス・ケラーを向いていると言います。ゲーテは文化も経済も栄えた大都市ライプツィヒで青春を謳歌し、法律を学ぶために入った大学よりも、酒や遊びに夢中だったようです。アウアーバッハス・ケラーにあった伝説の錬金術師ゲオルク・ファウストの壁画にヒントを得て戯曲『ファウスト』を創作したと言われています。



10,レストラン アウアーバッハス・ケラー 地図と行き方

1525年創業の老舗レストラン「アウアーバッハス・ケラー」はゲーテがライプツィヒ大学在学中によく通った店として有名です。ゲーテがその代表作「ファウスト」にこの店を登場させたことで有名になり、観光客がよく訪れます。

アウアーバッハス・ケラーの看板

大地下室レストラン Großer Keller

金曜の夜などは談笑する家族連れ、友人同士、ビジネスマンなどで一杯になり予約が必要でしょう。ゲーテの間、ワイン樽の地下室などはグループでの利用が多く、金額も高いです。500人収容の大地下レストランGroßer Keller で十分。

森鴎外の絵

 森鴎外が軍医として留学中にこの地下酒場を訪れ、「ファウスト」の日本語訳を決心したと言われます。店内の壁には、森鴎外がドイツ留学中を回想している様子の絵が掛けられています。
 ここで写真を撮りたい場合は、他のお客様が居ると写真を撮りにくいので、席を予約した方が良いでしょう。

おすすめ料理

料理はみんな大きめですが、とても美味しいです。
お勧めは川海老のシュリンプ。Cocktail von Flusskrebsen und Riesengarnelen 15.9ユーロ。



11,トーマス教会 地図と行き方

 J.S.バッハが死ぬまでの28年間を過ごしたライプツィヒの町で、最もバッハの足跡を感じられる場所、それがここ聖トーマス教会ではないでしょうか?バッハはライプツィヒ市の音楽監督として、聖トーマス教会、ニコライ教会など4つの教会での音楽を作曲し、演奏し、トーマス教会付属学校では生徒を教え、市の行事にかかる音楽を全て提供していました。
 聖ヨハネス教会(今は無い)にあったバッハの遺骨が、この聖トーマス教会の祭壇下に埋葬されていることも、特別バッハと縁がある教会とされる理由でしょう。

J.S.バッハの銅像

聖トーマス教会横の広場に建てられている有名なバッハの銅像

バッハ音楽祭2013年

ジョン・エリオット・ガーディナ-指揮、モンテヴェルディ合唱団で、バッハ「ヨハネ受難曲」BWV245を聴く。CDの録音よりさらに進化した感動的な演奏でした。
 2階の演奏席に拍手を送る聴衆。

ドイツ福音合唱祭 2014年

ロストック・モテット合唱団がシュッツ、バッハなどの作品を演奏。バランスの取れた透明な音色でした。

バッハ音楽祭2015年

バッハ、ロ短調ミサ BWV232
ハンス・クリストフ・ラーデマン指揮
シュトゥットガルト・ゲヒンガーカントライ & バッハ・コレギウム

様々な町を辿ってたどり着いた、バッハの人生の確信に溢れる到達点を感じました。

メンデルスゾーンの銅像

トーマス教会の西側にあるメンデルスゾーンの銅像。

1936年にナチ党員によりゲヴァントハウス前にあったメンデルスゾーン像が撤去されるという事件がおきます。
その像は2008年ここに再建されました。
バッハの作品を蘇らせた功績をたたえています。
この像は、メンデルスゾーンが寄贈したバッハの胸像(旧バッハ像)に向かい合う位置に立てられています。バッハの功績を称えたメンデルスゾーンの功績が称えられる、という構図になっています。



12,バッハ博物館 地図と行き方

聖トーマス教会のすぐ南側にはバッハの生涯を記念・展示する博物館があります。

バッハ博物館の入口

 他のバッハ博物館と違って、バッハの作品と生涯をまじめに展示しています。どことは書きませんが、バッハの器楽曲を日本の小学生の方が上手いだろうと思わせる位に弾く学芸員もいました。(怒って出て行くおじさんが居ました。)
 必見の資料館です。(ただ音声ガイドを借りる時、パスポート預けになります)
毎年バッハ音楽祭を主催するバッハ・アルヒーフ(バッハ資料財団)も、ここに入っています。



13,カフェバウム 地図と行き方

 ヨーロッパの中でも早くからコーヒー文化が芽生えたライプツィヒでも古く、1711年ごろからコーヒーを提供していた店として有名なカフェ・バウム。コーヒーが当時流行の最先端文化だったことは、J.S.バッハの「コーヒーカンタータ」BWV211からもうかがい知れます。

カフェ・バウム

ロベルト・シューマンがいつも座って音楽談義をしていたいたという席が、今も残っています。
 3,4階はコーヒー博物館(入場無料)になっています。

カフェ・バウム

雨が上がったので、外で昼食とコーヒーを楽しみました。

コーヒー博物館の一角

コーヒー文化はサロンの役割を果たしていました。



14,ワーグナー生家の跡 地図と行き方

 リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の生家があった場所。1886年の市街再開発で取り壊され、別の建物が建っています。斜め向かいには最近できた大きなショッピングセンター(Höfe am Brühl)があります

ワーグナーの生家があった場所

Cafe Wagner と書かれた建物の前にある白いテント。その下から覗いている、壁面の小さな碑が下の写真です。

ワーグナー生家跡の碑

碑には「この場所にリヒャルト・ヴァーグナー1813年5.22~1883年2.13の生家が1886年まで建っていた」とあります。

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