メンデルスゾーン 3つのモテット Op.69 について

2016年3月 長野市民合唱団コールアカデミー  石坂幸一

バッハとメンデルスゾーンにゆかりのある
ライプツィヒとその近郊の町。
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メンデルスゾーンについて



出生

Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy

ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
1809年2月3日 ~ 1847年11月4日
メンデルスゾーン (Mendelssohn)の名は「メンデルの息子」を表すドイツ語圏ユダヤ人の姓で、彼はドイツのハンブルクで富裕な銀行家の家庭に生まれました。
彼は啓蒙思想時代の代表的文筆家・哲学者であるモーゼス・メンデルスゾーンを祖父とし、神童モーツァルトと比較されるほど幼少期から優れた音楽の才能を発揮しました。



業績

 彼の家系はバッハ家から影響を受けたため、彼はバッハ音楽の復興に重要な役割を果たしました。特にバッハ「マタイ受難曲」蘇演をしたことで知られています。またライプツィヒ音楽院の設立や、ゲヴァントハウス常任指揮者として今日の「指揮者」の役割を確立するなど、19世紀の音楽界に極めて大きな影響を与えました。作曲家としても、あの『結婚行進曲』で知られる「夏の夜の夢」、「フィンガルの洞窟」、交響曲「イタリア」、無言歌集などの名曲を生み出しています。
 しかしメンデルスゾーンは「富裕の生まれで、何の苦労もなく育った坊ちゃん。そのためにその音楽は浅薄で深みがない」と評されたり、またユダヤ人差別や、20世紀に入ってからは旧東ドイツ政権の影響などで否定的な評価を受けることもありました。

 今回歌う「3つのモテット」Op.69 はキリスト教の音楽ですが、メンデルスゾーンが反ユダヤ主義の風潮の中で生き抜き、彼の死の年1847年に作曲されたことを考えると、様々な思いが湧いてきます。



ユダヤ人の歴史

 反ユダヤ主義がどのように生まれたかを知るために、ユダヤ人の歴史を振り返ってみます。
 イエスの十字架刑(西暦32年頃)判決は、ユダヤ人たちの圧力に抗しきれずに、ローマの出先機関の長ピラトが下したものでした。
(この詳細は当団のホームページ「ヨハネ受難曲解説」をご覧ください。)
そのイエスの死後西暦70年にローマ帝国によってエルサレムのユダヤ教神殿が破壊され、ほとんどのユダヤの知識人は殺害されました。エルサレム神殿中心のユダヤ教団は各地に散らばり、ユダヤ人はパレスチナ地方を去って海外へ移住して行きました(今日シリアの難民がヨーロッパに避難している状況に似ています)。もちろんイエスを救い主と信じた、ごく少数のユダヤ人達も含まれます。つまり一番初めのキリスト教徒はユダヤ人だったのです。この人々を原始キリスト教徒と言います。
 ローマ帝国がキリスト教化すると、ギリシャ・ローマ世界ではユダヤ人ではないキリスト教徒、つまり異邦人キリスト教徒が生まれ、ユダヤ人の中の原始キリスト教徒は消滅します。
 するとはじめは穏やかに生活できたユダヤ人ですが、急激に彼らの地位は悪化しました。それは「ユダヤ人は救世主キリストを殺害した危険で堕落した民族である」とされたからです。なぜユダヤ人にそのようなレッテルを貼る必要があったのでしょう?それは単純な民族差別ではなく、ローマ社会にキリスト教を広めるにあたって、ピラトつまりローマ当局の代表者が救い主を処刑したとなれば、布教には不都合であった、だからその責任をユダヤ人に転嫁したと考えられます。ユダヤ人種は、そのようにして世界を流浪する民となったのです。
 はじめユダヤ人は、読み書きできる知識人、貿易商人、手工業者として優遇されていましたが、次第に彼らに対する迫害が増加しました。中世ヨーロッパではユダヤ人に黄色い三角帽(先端に玉がついている)を冠らせて識別していた時代もあったのです。
 またキリスト教会は信者に対して利子をとって金を貸すことを禁じていたので、ユダヤ人だけがその間隙で金貸業(銀行業)を営み、利益をあげました。それがユダヤ人に対する憎悪をさらにあおりました。
 ユダヤ人達はキリスト教徒たちの住む町の一角「ユダヤ人地区」(ゲットー)に隔離されるようになりました。ドイツでは特にフランクフルトのゲットーが有名ですが、全ヨーロッパの各町にはユダヤ人街がありました。ユダヤ人がキリスト教徒と仲良くするには、キリスト教に改宗するしかなかったのです。



メンデルスゾーン一家とキリスト教への改宗

 フェリックス・メンデルスゾーンの父である銀行家のアブラハム・メンデルスゾーンは、自分の代でキリスト教・プロテスタントのルター派に改宗したほか、一家の姓をユダヤ人の姓であるメンデルスゾーンからバルトルディに変えていました。これにはユダヤ教からキリスト教に改宗した事を表す意味合いがあったと言われています。
 フェリックス自身は7歳の時に洗礼を受け、その時にヤコプ・ルートヴィヒという名前が与えられました。
 フェリックスを含むアブラハムの4人の子供達は、ユダヤ家系であったため公立学校への入学を許可されませんでした。父アブラハムは、たまたま経済力があったため、4人の子供達には差別を受けて職業上苦労しないようにと、超一流の家庭教師を招いて最高の教育を受けさせました。



バッハの復活

 メンデルスゾーン一家はナポレオン軍の侵攻を逃れて1811年にハンブルクからベルリンへ移住しますが、フェリックスは彼の敬愛する3歳年上の姉ファニーとともに、ベルリンの音楽教師カール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)に学び、早くも9歳でピアニストとして舞台に上がりました。
 ツェルターは、カール・フリードリヒ・クリスティアン・ファッシュ(1736-1800)という人の弟子です。ファッシュはバッハ一族の薫陶を受けてバッハの楽譜を収集し、ベルリン・ジングアカデミー(ベルリン合唱協会)ではバッハのモテットを研究していました。ファッシュの没後ジングアカデミーを任されたツェルターのもとで、フェリックス・メンデルスゾーンはバッハの作品に触れることになります。
 フェリックス・メンデルスゾーンがバッハの音楽に出会うルートはもう一つありました。それは祖母のベーラ(1749-1824)が、ライプツィヒでバッハから教えを受けた直弟子ヨハン・フィリップ・キルンベルガー(1721-1783)に学び、また祖母ベーラの妹(フェリックスから見ると大叔母)ザーラ・レーヴィ(1761-1854)はバッハの長男フリーデマン・バッハ(1710-1784)の教えを受けていました。ベーラの娘(フェリックスの母)レーアも子供達にバッハのピアノ作品、特に平均率ピアノ曲集を熱心に練習させたと言われています。
 フェリックス・メンデルスゾーンが14歳のクリスマスの時、祖母のベーラからバッハの「マタイ受難曲」(BWV244)の手書き楽譜をクリスマスプレゼントとして贈られました。これが数年後の1829年、弱冠20歳のフェリックスが、当時全く忘れられていたバッハの「マタイ受難曲」をベルリンで蘇演したきっかけでした。これはドイツ中の大反響を呼び、ドイツ各都市で演奏されて「バッハ復興」の大きな流れになったのです。
ライプツィヒでは、「マタイ受難曲」が1727年4月11日バッハによって初演された場所と同じ聖トーマス教会で、1841年4月4日オルガン付きで蘇演されました。
 それがきっかけで人々はバッハやヘンデルなど古い作品にも目を向けるようになりました。それまでの演奏会は現役作曲家の作品を取り上げるのが普通で、古くなった曲は見向きもされませんでした。今日の演奏会のように古い作品(古典)も取り上げるようになったのはメンデルスゾーンのおかげです。音楽に「クラシック音楽」という範疇ができたのも、この頃からだそうです。



ゲーテやシューマンなどとの交流

メンデルスゾーンの家

 ベルリンのツェルターは、文豪ゲーテと手紙をやり取りする友人の間柄でした。そのツェルターは12歳のフェリックスを、ヴァイマールに住む72歳の文豪ゲーテに引き合わせました。そのときゲーテはこの少年に感銘を受け、神童モーツァルトとの比較の会話を交わしています。その後フェリックス・メンデルスゾーンは何度かゲーテに招かれていて、ゲーテから古典文学・芸術の鑑賞の仕方を学んだほか、ゲーテの多くの詩にも作曲をしています。彼らは60歳の年の差にもかかわらず深い友情で結ばれていました。
 ライプツィヒに移り住んだフェリックス・メンデルスゾーンは1837年に28歳で結婚し、1845年には家族と共に新居に移り住みました。その家は今、メンデルスゾーン・ハウスとして公開されています。そこは芸術家たちの音楽サロンとなり、シューマン夫婦、リスト、ベルリオーズなどとともに小演奏会を開いていました。そしてメンデルスゾーンは積極的に彼らの作品を取り上げ、自らの指揮で初演を行なっています。 



ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの常任指揮者として

 メンデルスゾーンは、ベルリン、デュッセルドルフ、イギリスで作曲・演奏活動を続けましたが、26歳の1835年にライプツィヒ市からの要請でゲヴァントハウスの楽長(指揮者)に就任しました。
 メンデルスゾーンが就任する以前のゲヴァントハウスでは、器楽のとりまとめはコンサートマスターが行っていました。メンデルスゾーンは声楽・器楽全体をまとめ楽団の練習を指導し、本番で指揮棒を振るという近代的な「指揮者」という役割を世界で初めて確立しました。
 約12年のライプツィヒ時代、メンデルスゾーンはゲヴァントハウス管弦楽団をヨーロッパを代表する水準にまで引き上げました。そして次代の音楽家養成のために、自ら資金を集めてドイツ初となる音楽のための高等教育機関「ライプツィヒ音楽院」を創設し、初代の学長に就任しました。ここは今日「メンデルスゾーン音楽演劇大学」となっていて、そこでは滝廉太郎や齋藤秀雄、グリーグ、ヤナーチェク、カール・リヒター、クルト・マズアなどが学んでいます。



38歳の若さでの死(ライプツィヒ)

 メンデルスゾーンはライプツィヒではゲヴァントハウスの楽長として、またライプツィヒ音楽院の院長として後輩の指導に当たる傍ら、作曲や演奏活動で多忙を極めました。
 彼の最も円熟した時期に作曲された、オラトリオ「エリア」作品70は死の前年1846年8月にイギリス・バーミンガムで初演され大きな称賛を得ました。
 1847年初め、彼はライプツィヒに戻りゲヴァントハウスの定例的な仕事をしていました。そして4月には再びイギリスに渡りロンドン、バーミンガム、マンチェスターで「エリア」の6公演を監督しドイツに戻りましたが、帰国した彼を待っていたのは5月に愛する姉ファニーが急死したという知らせでした。過労だった彼は突然の姉の死に、みるみる体調を崩します。失意の中、水彩画を描くまでに快復したフェリックスはスイスでの療養中に作曲を再開し、その年(1847年)夏に「3つのモテット」作品69を作曲しました。
 しかし10月に発作を起こして床についた彼は1847年11月4日38歳の若さで、「ひどく疲れたよ。Ich bin müde, schrecklich müde.」という言葉を残してライプツィヒの自宅で息を引き取りました。
 葬儀はライプツィヒ大学内のパウリナー教会で執り行われ、亡骸は大勢の市民に見送られながらその夜の特別列車でベルリンへ送られました。そして3日後に、彼は愛する姉ファニーの隣りに埋葬されました。



メンデルスゾーンの評価

 ライプツィヒ時代のメンデルスゾーンはゲヴァントハウス管弦楽団や市中の合唱団などと音楽水準の向上に貢献していました。古典や同時代の作曲家の作品を取り上げて演奏していましたが、彼のもとには若手の作曲家からの演奏依頼が殺到していました。その中のひとりにライプツィヒ生まれのリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)が居ました。
 しかしワーグナーはメンデルスゾーンに提出した楽譜を彼に紛失されてしまい、不快感を抱いていたのに併せて、彼の成功とユダヤの出自に苛立ちメンデルスゾーンを攻撃する論文を発表しました。
 その後約1世紀にもわたり、何人もの文化人・音楽家がメンデルスゾーンを低く評価していて、今日日本でもその影響がまだ残っていると言われています。
 メンデルスゾーンの死後、ドイツの反ユダヤ主義の時代の流れの中でメンデルスゾーンもユダヤ人の家系出身であることを理由に中傷を受けます。ライプツィヒではナチ党が政権を握ると1934年11月を最後に彼の作品は全く演奏されなくなり、1936年11月9日夜にはナチ党員によってゲヴァントハウス前にあったメンデルスゾーン像が撤去されるという事件が起きました。
 さらに戦後の東ドイツ社会主義体制下でも、メンデルスゾーンが上流階級の出身者だとして歪んだ解釈がされました。
 ようやく転機が訪れたのは東西ドイツ統一後のことです。荒れ果てていたメンデルスゾーンの旧宅は修理・改装され、1997年に博物館としてオープンしました。メンデルスゾーン像撤去事件から70年を経た2008年10月、像はトーマス教会前に復原されました。またゲヴァントハウスのホワイエ・レセプションには優しく微笑むメンデルスゾーン像が建っています。




3つのモテット 作品69について


 この作品はイギリス国教会(英国聖公会)で使用する意図で、メンデルスゾーンによって彼の死の年に書かれたものです。
 メンデルスゾーン自身はプロテスタントです。イギリス国教会はカトリックから分離した宗派ですが、カトリックと共通する典礼様式を多く持っているため、この曲もそれに合わせています。
 それはイエスの母マリアを偶像として尊敬することはプロテスタントでは禁止されていますが、この曲の3曲目がマニフィカート、つまりマリアの賛歌であることに、特に現れています。

 宗教様式の論議は除いても、最晩年のメンデルスゾーンが人生で味わったことのないほどの疲労と苦悩の中での作品でありながら、この曲は安らぎに満ちた幸福感と感謝があふれる作品です。


1. Herr, nun lässest du deinen Diener, op. 69 -1
主よ、今こそあなたは僕を去らせてくださいます
 (新約聖書 ルカによる福音書第2章29-32)
主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。
この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照らす啓示の光、
み民イスラエルの栄光であります。
 (頌栄)
 栄光が父と子と聖霊にありますように、
 初めにあったように
 今も いつも、永遠に限りなく。アーメン。

 ルカによる福音書のテキストは、救い主イエスが生まれた後ヨセフとマリア夫婦がベツレヘムからエルサレムの神殿に詣でた時、信仰深い老人シメオンが語った言葉です。
 シメオンは聖霊に満たされたとき「主の使わす救い主に会うまでは死ぬことはない」と語っていました。その彼が、また聖霊を感じてエルサレム神殿に入ると、マリア夫婦が幼子を抱いて入ってきたので、直感的に「この幼子こそ救い主だ」と感じて主に祈り、「私は救い主を見たので、あなたの言葉通り私を(天国に)去らせてください。」と歌ったものです。シメオンの歌(ラテン語でヌンク・ディミチス)という有名な部分です。
 シメオンはさらに続けて、「この救いはイスラエルの民の栄光であり、異邦人を(も)照らす光で、全世界の万民のためです。」と歌っています。つまり救い主イエスの誕生は、イスラエルの民だけでなく全世界の救いです、と言っています。
 イスラエルの民ユダヤ人としての、メンデルスゾーンのアイデンティティが表現されていると思うのです。
 メンデルスゾーンが死を予感していたかどうかは定かでありませんが、繰り返し表れる「主よ、今こそあなたは僕を去らせてくださいます」という静かなフレーズが印象的です。



2. Jauchzet dem Herrn alle Welt, op. 69 -2
全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ
 (旧約聖書 詩編 第100編)
全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
喜びをもって主につかえよ。
歌いつつ、そのみ前にきたれ。
主こそ神であることを知れ。
われらを造られたものは主であって、
われらは主のものである。
われらはその民、その牧の羊である。
感謝しつつ、その門に入り、
ほめたたえつつ、その大庭に入れ。
主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、
そのまことはよろず代に及ぶからである。
 (頌栄)
 栄光が父と子と聖霊にありますように、
 初めにあったように
 今も いつも、永遠に限りなく。アーメン。

 この曲は旧約聖書の詩編第100編をテキストとしています。キリスト教は旧約聖書の遺産を継承しつつ、ユダヤ教から独立した宗教です。そしてユダヤの民俗宗教の枠を超えて普遍的精神を宿した宗教です。旧約聖書はユダヤ教の教典だからといって切り離すことはできず、イエスさえも旧約聖書の言葉をいつも引用していました。新約聖書にある「『聖書』には、こう書かれている...」という表現の『聖書』は全て旧約聖書のことです。だから旧約と新約は一体の書物として扱われます。
 神は、その言葉を旧約聖書においても新約聖書においても、ユダヤ人の口を通して語られました。また神の子を、ユダヤ人を通して与えられました。メンデルスゾーン一家もユダヤ人の血を繋ぎながらキリスト教徒になりました。フェリックスも、きっと旧約のユダヤ人が神に向かって様々な個人的思いを吐露する詩編に、思い感ずるところがあったのだと思います。
 詩編第100編はイスラエルの民が神殿に入場するときに歌われた賛歌で、ラテン語ではユビラテ・デオ、英国は Old Hundredth として親しまれている詩です。喜び、感謝を大きな声で神に捧げる歌です。
私たちを造られたのは、私たち自身ではなく主である。
羊が羊飼いに従うように、私たちは主の牧場に住む羊である。
その前庭から大庭に入ろう。
主の恵みと真理は永遠に存在する、と歌います。
 頌栄部分はOp.69-1 と同じですが喜びに溢れた輝かしい大合唱です。



3. Mein Herz erhebet Gott, den Herrn, op. 69 -3 
わたしの魂は主をあがめ (マニフィカート)
 (新約聖書 ルカによる福音書第1章46-55)
わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救主なる神をたたえます。
この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と
言うでしょう、
力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださった
からです。
そのみ名はきよく、
そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
飢えている者を善いもので満たし、
富んでいる者を空手のまま帰らせなさいます。
主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに。

 (頌栄)
 栄光が父と子と聖霊にありますように、
 初めにあったように
 今も いつも、永遠に限りなく。アーメン。


 新約聖書ルカによる福音書のこの部分は、ラテン語でマニフィカートと呼ばれ、聖霊によって身ごもったマリアが神を賛美して歌う有名な歌です。
 マリアは、全能の神が私に大きな事をしてくださった(神の子を宿すこと)、と喜びます。しかし生まれてくる子は、受胎という事実においてはマリアの子ですが、霊的にはマリアの上で神の子だったのです。マリアはその重大な意義を知って歓喜したのでした。
 実はマリアのこの歌は、旧約聖書詩編の言葉を多く含んでいるほか、サムエル記上巻に出てくる詩に文脈がよく似ています。きっとマリアは感動に溢れて、思いを歌ったのだと思います。
 「主はみ腕をもって力をふるい」以降は旧約聖書の言葉ですが、イエスの生涯を予告しています。旧約聖書で預言されていたことが、今からイエスの上に起ころうとしています。イスラエルの民、ユダヤ人の父祖アブラハムとその子孫に対する神の約束が、今成就しようとしている。
 きっとメンデルスゾーンは、ユダヤ人としてキリスト教に改宗したことは、便宜的に地上の世界で受け入れられる為ではなく、天国で永遠の命に入るためだったと死の直前に実感して作曲したのではないでしょうか。



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