詩人フリードリッヒ・シラーが25歳の時に、この農家の2階に数ヶ月間暮らし、ここでベートーヴェンが交響曲第9番第4楽章で使った「歓喜の歌」の詩を書きました。
シラー・ハウス
シラーが25歳の時に、かの有名なベートーヴェン「歓喜の歌」を書いた場所がここです。
ライプツィヒに留学中の
滝廉太郎も、好んでここを訪れていたようです。ここの絵葉書を郷里の大分に送った記録が日本に残っています。
シラー・ハウスの2階
シラー(1759~1805)が詩の愛読者たちの招待を受け、1785年5月から9月までここに滞在しました。
シラーが滞在していた2階の部屋
この部屋を見学している時、外で待たせていたタクシーの運転手さんが、自腹で入場券を買って「Freude schöner Götterfunken,....」と大声で歌いながら階段を登って来たのが楽しい思い出です。マリオさんというイタリア系のライプツィガーでした。
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-1847)が、1845年から亡くなる1847年まで住んだ家です。2階の一角に家族と暮らしていました。
メンデルスゾーンは
ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者として、また彼自身の資金繰りで創設した
音楽大学(現在はメンデルスゾーン音楽演劇大学)の学長として多忙な日々を過ごし、最後はこの家で息を引き取りました。
メンデルスゾーン・ハウス
現在のゲヴァントハウスから歩いて数分のところにあります。
ここでオラトリオ「エリア」を創作したほか、シューマン夫婦やワーグナー、ベルリオーズなど友人を招待して「日曜音楽会」が開かれました。
入口の門にあるレリーフ
パネルには「ここでフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディは彼の人生最後の年を過ごした。彼は1847年11月4日この住まいで天に召された。」と書いてあります。
38歳の若さで亡くなりました。
メンデルスゾーンの葬儀は
ライプツィヒ大学のパウリナー教会で執り行われました。
庭にあるメンデルスゾーンの胸像
J.S.バッハの死後100年が経過し、忘れられようとしていた作品を蘇らせたメンデルスゾーンの功績は、古典音楽を我々が知ることができるようになった功績でもあると思います。
また彼は音楽が一般市民のものであることを教えてくれました。
ロベルト・シューマン(1810-1856)が恋に落ちた、21歳のクララと幸福な日々を過ごした新居がここです。
シューマン・ハウス
法律を学ぶために1828年にライプツィヒ大学に入学したシューマンは、音楽の夢を捨てきれずピアノ教師の門を叩きましたが、その娘のクララに恋をします。
シューマン・ハウスの看板
シューマンは「歌の年」「交響曲の年」と呼ばれる日々を、クララとともにこの家で過ごし、幸せな歌曲の数々、交響曲1番「春」、合唱曲「流浪の民」などを作曲しました。
小学校が併設されています
子供達が元気に遊んでいました。
メンデルスゾーンが創設した音楽大学。現在は「メンデルスゾーン音楽演劇大学」となっています。音楽地区という大変静かな、緑の多い環境の中にあります。日本の
滝廉太郎や斎藤秀雄のほかカール・リヒター、クルト・マズア、グリーグなどがここで学んでいます。
ライプツィヒ音楽・演劇大学
ヴァイオリンの練習音が聞こえて来ました。小さな男の子を連れた男性とすれ違いましたが、その声から明らかにバリトン歌手であることがわかりました。
校門の銘板
創設者の名前を冠して、「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇高等学院」となっています。
周りの道路
鳥がさえずる静かな環境です。
周囲の通りはベートーヴェン通り、モーツァルト通り、ロベルト・シューマン通りなど音楽家の名前がついています。
「荒城の月」を作曲して注目された滝廉太郎は、東京音楽学校(現・東京藝術大学)研究科に在籍していました。彼は才能を認められて文部省の命を受け、明治34年(1901年)国費でメンデルスゾーンが創設した
ライプツィヒ音楽院に留学します。しかしその年の秋に風邪をこじらせて入院し、翌年肺結核を発病。文部省からの命令で帰国を余儀なくされます。音楽院にはわずか2か月通っただけの無念の帰国です。
そして故郷の大分に帰郷した翌年、滝廉太郎はわずか23歳の若さで亡くなりました。
滝廉太郎の碑
碑は
ライプツィヒ音楽・演劇大学のすぐ隣りにある、滝の下宿先があった建物の前に建てられています。日本の協力で建てられたそうです。
ライプツィヒは印刷・書籍出版の中心地でした。マルティン・ルターの聖書がたくさん印刷されたおかげで、写本でしか手に入らなかった聖書が一般市民の手に入り、しかもドイツ語で読めるようになったのです。バッハの時代には既に4軒に1冊位、ドイツ語の聖書が普及していたという説もあります。ラテン語だった聖書が、一般市民がドイツ語出版物で買えるようになったことは、その後の文化に計り知れない影響を与えています。
世界最古の日刊新聞も、ここライプツィヒで創刊されました。日本の「岩波文庫」のモデルになった文庫本もここから出版されています。
また音楽の中心地だったライプツィヒは、楽譜でもブライトコプフ、ペータースなどの音楽出版社を抱える中心地でした。
ライプツィヒの印刷は、文化の発展に大いに貢献しました。
印刷工芸博物館入り口
ライプツィヒ中央駅の東側にあった印刷地区は、第二次大戦で壊滅的な被害を受け、戦後ほとんどの出版社は西ドイツに流出しました。
ここには古い印刷技術が展示されていて、印刷と文化の発展の過程を興味深く見ることができます。
楽譜の原板と工具
活版印刷や輪転機の大型機械、活字を作る行程も見学できますが、楽譜の古い印刷方法に興味がありました。
いまではDTMで簡単に作れる楽譜も、昔は大変な作業だったことがわかります。
楽譜の原板を修正する作業
係員に「今はもう作業工程は見られないでのですか?」と聞くと、解説のビデオを見せてくれました。「何か質問は?」と聞かれてもドイツ語でどう聞いたら良いのか、出てきません。
解説のビデオ画面より
左右反転した原板に音符の型をハンマーで打ち付けます。