ライプツィヒの魅力 - 近郊の町
ライプツィヒから鉄道を利用して日帰りで行ける範囲の、バッハゆかりの町をご紹介します。
ただし、33,リューネブルクと 34,リューベックはライプツィヒからの日帰りは難しいです。
鉄道はDB(ドイツ鉄道)を利用します。
正確な鉄道情報については、
ドイツ鉄道の路線図、運賃、時刻表など←こちらをご覧ください。出発駅、目的駅を入力したあと「Suchen(検索)」を押します。
J.S.バッハは1717年32歳のときに、
ワイマールからやって来てケーテンの宮廷楽長の地位に就きました。
ケーテン城のあと
バッハの時代は広大だったケーテン城も、今は幾つかの建物と塔を残すだけになっています。
歴史的な建物はどこも、真っ黒な旧東ドイツ時代のイメージを持って行くと、妙に明るい色で建て直されていることが、よくあります。東西ドイツ統一後、旧東ドイツ地区は急速な経済発展をしていて、観光客を呼び込みたい事情もありますが、私(管理人)個人的には好みではないのです。
かえって何も無い方が、当時をしのぶことができます。
ケーテン城跡
バッハはケーテンの宮廷では恵まれた給与条件で仕事ができ、旧友には手紙で「ここで一生を過ごすつもりだ」と書き送っていた、と伝えられています。
バッハはここで、《平均率クラビーア曲集》
《無伴奏チェロ組曲》
《ブランデンブルク協奏曲》など、
主に器楽曲を作曲しています。
聖ヤーコプ教会(カルバン派)
ここが市教会の聖ヤーコプ教会。
ルター派ではなくカルバン派。
ケーテンの宮廷は、偶像を禁止し礼拝での音楽を重視しないカルバン派だったため、バッハの作曲は世俗音楽が中心となりました。
このことが、かえって宗教音楽ではなく楽しい世俗的器楽曲を生み出す背景になったのではないでしょうか?
しかし、領主が音楽嫌いの妃と結婚して音楽熱が冷めたり、息子達の大学進学の都合などで、バッハは1723年
ライプツィヒに移ります。
ケーテンの駅舎
だれも居ません。
300年近く前のこと。バッハは、近くのハレ生まれでロンドンで大成功を収めていた作曲家ヘンデルが
故郷のハレに帰って来ている、といううわさを耳にして、ここケーテンから駅馬車でヘンデルを訪ねたそうです。しかしヘンデルは既にドレスデンに向かったばかりだったとの話があります。
ハレは、バッハも憧れた大作曲家ヘンデルの生地です。バッハとヘンデルは、たまたま1685年の同じ年に生まれています。
市庁舎を背景にしたヘンデルの銅像
ハレ駅からのトラムを降りると目の前にヘンデルの銅像。
ヘンデルの銅像が向いている方向にマルクト教会(聖母教会)があります。
ハレのマルクト教会
(聖母教会)
ヘンデルが洗礼を受けた教会ですが、注目はオルガンです。
バッハ31歳の
ワイマール時代、バッハはこの大オルガン改装の試演会に招かれ、ここのオルガニストになりたいと切望します。
いったん採用が決まったものの給与条件が悪く、
またワイマール侯が昇給を条件に慰留したため、
バッハは
ワイマールに留まりました。
12時からのオルガンコンサートを聴きました。
(
ヘンデル、ヴァレリ(1760-1822)、マックス・レーガー(1873-1916)の作品)
染み入るような音色と音楽でした。
ヘンデルハウス
ヘンデルが生まれた家、ヘンデル・ハウスはマルクト教会から歩いて5分もかからない所にあります。
ロンドンで成功したヘンデルの生地として、ハレは彼を大切にしています。
「ドイツのフィレンツェ」と呼ばれる、エルベ川沿いの美しい都市ドレスデンは見どころが多く、一日ではとても見きれません。
ドレスデンは現在ザクセン州の州都ですが、バッハの時代もザクセン選帝侯国の首都でした。選帝侯とは、神聖ローマ帝国の皇帝を選挙する権利を与えられた侯のことで、ザクセン選帝侯もそのひとりでした。ドレスデンにはその歴代ザクセン選帝侯の居城ほか、豪華な宝物館など、アッと言わせるものばかりがあります。
バッハのロ短調ミサに関係する、「キリスト教宗派」にも注目します。
ゼンパー・オーパー(オペラハウス)
内部の見学ツアーは、予約しておかないと窓口で並ぶことになります。
選帝侯居城の「歴史的緑の丸屋根(宝物展示)」も予約が必要(14ユーロ)で、ネット決済して入場券をプリントして持って行きます。
J.S.バッハはライプツィヒ市のトーマス・カントル時代には、
市の参事会とたびたび衝突していました。そして新天地として、都であったドレスデンの「宮廷作曲家」の称号を欲していました。
カトリック旧宮廷教会(大聖堂)
ザクセン選帝侯国は、もともとルターの地盤でプロテスタントの宗派でした。
しかしバッハの時代のザクセン選帝侯であったフリードリヒ・アウグスト1世は、カトリックの大国ポーランド国王の地位をねらっていました。
そこでフリードリヒ・アウグスト1世は、自らカトリックに改宗して1697年ポーランド王に推挙されました。
写真の教会はザクセンがカトリックの宗派であることを
宣言するために作らせたカトリック様式の教会です。
権力を手に入れるための見せかけの改宗だったわけです。
君主の行列
(マイセンの磁器でできた壁画)
フリードリヒ・アウグスト1世の壁画。
馬の右後ろ足が、ルター派の象徴であるバラの花を踏みつけていると言われます。
フリードリヒ・アウグスト1世が亡くなった1733年、
バッハは、後にロ短調ミサの第一部となる《キリエ》《グローリア》を、その後継者であるアウグスト2世に献呈しています。
もともとルター派プロテスタントであったバッハが、カトリックの様式であるラテン語のミサ曲を書いたのは、
既にカトリックに改宗したドレスデン選帝侯に向けて、
彼が「ドレスデン宮廷作曲家」の称号を手に入れたかったのが一つの理由では、とも言われています。
ブリュールのテラス
エルベ川を見下ろしながら食べる昼食は格別です。
再建されたフラウエン教会(聖母教会)
第二次大戦末期には、ドレスデンの町は集中爆撃を受け、壊滅的な被害を被りました。
写真のフラウエン教会(聖母教会)は1945年2月(東京大空襲の前月)
二昼夜にわたる空襲で倒壊し、
放置されたままでしたが、
ドレスデンの市民が破片を回収し、
世界中から基金を集め、
1993年から再建を初め、
コンピュータの三次元グラフィックスなどを駆使して、
2005年にようやく再建されました。
1736年にはJ.S.バッハが招かれてここのオルガンを演奏していますが、
現在あるオルガンではありません。
マルティン・ルターが大学教授としてこの町に招かれ、のちにヨーロッパの精神文化に多大な影響を与えた宗教改革を行った場所です。ルターの業績はバッハの音楽と切っても切れない関係にあります。是非お勧めしたい町です。
マルティン・ルター記念館(世界遺産)
ルターが35年間住んだ修道院。
ルターは
エアフルトでの厳しい修道院生活を通して、苦行や善行、禁欲的生活によってではなく、ただ聖書によって人は救われるという信念を、この館で吹き込まれたのでした。
日本語の案内パンフレットがあります。Auf Japanisch, bitte.と言えばもらえます。
城教会(Schloßkirche)の扉(世界遺産)
1517年ルターがカトリック教会への「95箇条の論題」を貼りだした扉。
歴史的大転換への扉です。
この約200年の後、ルターの思想は
バッハの精神に大きな影響を与えます。
2017年の「ルター宗教改革(1517年)500年祭」に向けて、
ドイツ国内の関係施設はどこも工事中です。
旧ヴィッテンベルク大学(現在LEUCOREA大学)
ルターが教授として招かれたヴィッテンベルク大学。この小さな町の大学に、学生も老人もルターのドイツ語による聖書註解を聴きに集まりました。
ヴェッテンベルク大学は一時廃止され、今はハレ大学と一緒になって「マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク」として、本校は
ハレにあります。
(ハレではそこにも行ってみました。以前の五千円札肖像画、新渡戸稲造も出た大学です。)
1502年設立のヴィッテンベルク大学
ルターは1508年に教授として、1502年にできたばかりのこの大学に招かれました。
ナウムブルクはとても美しい町です。ヴェンツェル教会には、バッハの弾いた名オルガン、ヒルデブラント・オルガンがあります。 時間があればゆっくり見たい町です。
ヴェンツェル教会の
ヒルデブラント・オルガン
バッハの弾いたオルガンを使ったコンサート。
オルガンの装飾も含めて木の部分が多いせいか、
音が減衰して消えかかる時の澄んだ響きがとても素晴らしかったです。
オルガンは建物と一体であることが、よくわかります。
演奏後に桟敷の演奏席で、オルガニストにオルガンの解説をしていただきました。(事前に予約の上、プラス2ユーロ必要です。)
バッハの弾いた
ヒルデブラント・オルガン
この教会のオルガニスト・ダヴィト・フランケ氏が、演奏の都度バッハとオルガンと曲の説明をします。(ドイツ語と英語)
ヘレン通り
古くおしゃれな家並みが気に入りました。
昼食後に町を歩いていると、オルガニストのフランケさんにまた会いました。
ミュールハウゼンを辞職したバッハは、ここワイマールで宮廷礼拝堂オルガニストとして腕を磨くことになります。
残念なことに、現在のワイマールはバッハの陰が薄く、バッハ以降のゲーテ、シラー、リストなどの文化の牙城という印象があります。しかし町全体が世界遺産に登録されるなど、見どころが多いです。
バッハが仕えた「赤い城」
バッハが、ワイマール領主ヴィルヘルム・エルンスト侯(1662-1728)の宮廷オルガニスト兼宮廷楽師として仕えていた宮殿。
この建物の右側面に、下の写真=バッハの胸像があります。
馬の右手方向がバッハが1708年から1717年まで住んでいた家でしたが、空襲で破壊されて何も残っておらず碑板だけがあります。
バッハの胸像
J.S.バッハが1703年と、1708年から1717年まで、ここワイマールに居たことを記念する胸像。
小さな像で、注意して見ないと通り過ぎます。
ワイマール侯は1717年11月、
ケーテンへの移籍をたびたび口にするバッハを
禁固処分にしてしまいます。
ゲーテハウスの庭
ドイツ人はほんとうにゲーテを愛しています。
ゲーテは、ギリシャの古典や美術、技術などあらゆるものを吸収して作品を生み出したことが、良く分かる展示でした。
ゲーテは60歳以上も若い神童メンデルスゾーンの才能を見抜き、ワイマールに何度も招きました。
国民劇場
国民劇場はワイマール憲法(全権委任法によって骨抜きにされてしまった憲法)が議決された場所としても有名で、写真左下の壁面にその記念碑があります。
右側の囲いの中にはゲーテとシラーの銅像があります。ちょうど野外劇場が設営されていて、銅像はその大道具の一部として使われていました。
エアフルトは1200年の歴史を誇る、チューリンゲン州で最も大きな町です。ヨーロッパの東西・南北の交通の要衝で、商業が発展し町の財政も豊かでした。バッハの一族とマルティン・ルターにゆかりのある町です。
クレーマー橋
橋の両側に木組みの家が並び、中世は商人、学生、騎士などが行き交う賑やかな場所だったことが想像できます。
もし時間があれば、Alte Synagoge(古いシナゴーグ)の見学もお勧めします。エアフルトは中世に大きなユダヤ人社会があり、そこは1990年代に再発見された中央ヨーロッパ最古のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)です。クレーマー橋から直ぐです。
カウフマン教会とルターの像
この教会はJ.S.バッハの両親が
1668年に結婚式を挙げた教会です。
ルターもここで説教をしています。
エアフルト大学やアウグスティナ修道院での生活を通して
古くからの知り合いが多いエアフルトで、
ルターは熱烈に迎えられます。
アウグスティナ修道院の
「ルターの入口」
1505年7月、エアフルト大学で法律を学んでいたマルティン・ルターは、父の反対を押し切り、ここアウグスティナ修道院に入ります。修道僧として厳しい日々を送ることになります。
この門は、ルターが大学の友人達に見送られて修道院に入る時、「君達とはもうこれで会うことはないだろう」と訣別の言葉を告げると、友人達は涙を流した、という。その門です。
手前側が修道院です。
プレディガー教会
プレディガー教会は、あの「パッヘルベルのカノン」で有名なパッヘルベルが、オルガニストをつとめた教会です。
パッヘルベルは、J.S.バッハの長兄、
J.クリストフ・バッハ(1671-1721)に
オルガンを教えました。
後に10歳で両親を亡くした
J.S.バッハが
オーアドルフで、
クリストフ・バッハから
オルガンを教わることになります。
プレディガー教会の
オルガンコンサート
J.S.バッハの
《プレリュードとフーガ ホ短調》BWV548
を聴くことができ、感激でした。
夏の夕暮れ、木漏れ日に揺れる西日が差し込み、堂内がオルガンの音で満たされる。至福の時でした。
アルンシュタットは、バッハが18歳から22歳まで(1703-07年)過ごした町です。
バッハは1703年の3月から約半年間
ワイマールの宮廷楽師として、ヴァイオリンまたはヴィオラを担当していましたが、アルンシュタットが大火で焼けた後にできた新教会(今はバッハ教会)の新オルガンの試験演奏を行いました。その演奏が高く評価されて正式にオルガニストとして新教会に招かれます。聖歌隊員の指導も職務でした。
血気盛んな若いバッハの銅像
バッハは年長の聖歌隊員とトラブルを起こし、この市役所前の広場で、剣を抜く喧嘩騒ぎも起こしています。
言うことを聞かない歌のヘタな年長者に業を煮やしたのでしょう?バッハの気質がよく表れた作品です。
バッハ教会(新教会)のオルガン
若いバッハが初めて安定した地位を得て
音楽家として活動を始めました。
規模は小さいですが、バッハの思いが
いっぱい詰まったオルガンのように見えてきます。
若いバッハは4週間の休暇を願い出て、
北ドイツ・
リューベックへ400Kmの道を
歩いて出かけ、
ブクステフーデのオルガンに魅せられます。
そして休暇を無断で3か月も延長し、
帰ってから市当局や聖職者会議から喚問を受けます。
バッハ教会(東側から見る)
バッハ教会と市庁舎は、小高い丘の上にあります。
バッハが最初の妻マリア・バルバラと結婚式を挙げたドルンハイム村の教会は、ここからすぐ近くにあります。
新しい技法を手に入れたバッハが行った斬新な演奏は、「奇妙な変奏」や「耳慣れぬ音の混入」として教会監督から評価されず、結局バッハは1707年22歳の時に
ミュールハウゼンに出て行くことになります。
J.S.バッハは
アイゼナハで両親を亡くし、10歳から15歳まで、ここオーアドルフの聖ミヒャエル教会でオルガニストをしていた長兄J.クリストフ・バッハ(1671-1721)のもとに引き取られます。J.クリストフ・バッハは、パッヘルベルからオルガンを教わりました。
聖ミヒャエル教会の跡
J.S.バッハの長兄J.クリストフ・バッハがオルガニストを務めていた教会の跡。
大戦の爆撃を受けて教会は破壊され、塔だけが残っています。教会があった敷地には「ヨハン・ゼバスチャン・バッハは1695年から1700年まで彼の兄ヨハン・クリストフ・バッハのもとで聖ミヒャエル教会でオルガン演奏を学んだ」と書かれた碑だけが建っています(写真手前)。
ベンチに静かに腰を下ろしていると、バッハが耳を傾けた兄のオルガンが聞こえて来るようです。
このすぐ近くの城博物館では「バッハが兄の楽譜を格子棚から取り出して、月明かりで写譜をした」というエピソードにちなみ、見学者に格子棚からコピーした楽譜を取り出させる、という展示をしているそうです。そんなしょうもない展示は見ない方が良いでしょう。
ミヒャエル教会の塔
バッハはこの道を通って教会に通ったのでしょう。
バッハは合唱隊に所属して歌っていました。
しかし手狭な兄の家に長くは留まることができず、
教会音楽監督の世話で、
親友エールトマンと共に
リューネブルクの聖ミヒャエル教会に
給費付き合唱団員として行きます。
J.S.バッハ通りの道路標識
バッハが居候していた長兄ヨハン・クリストフの家はこのすぐ近くにありました。
ここオーアドルフでもそうですが、ドイツの人は皆親切で、写真撮影をお願いすると忙しそうにしていても快く応じてくれます。ふた言み言笑顔で会話を交わしてくださると、旅の楽しさが倍増します。
アルンシュタットのオルガニストだったバッハは、1707年22歳の時にミュールハウゼンの市から好待遇で迎えられ、聖ブラジウス教会のオルガニストに就任します。
またバッハの最も重要なジャンルとなるカンタータを、ここを出発点として創作を始めます。
聖ブラジウス教会
バッハは1707年6月、聖ブラジウス教会のオルガニストに就任します。
この教会は礼拝での華麗な音楽表現を否定する敬虔派。
一方聖マリエン教会は音楽を重要視するルター正統派で、両者は対立。
バッハは1708年6月、突然辞表を出して
ワイマールに移籍します。
聖ブラジウス教会
バッハ像
バッハ22~23歳のイメージ。
アイゼナハはバッハが生まれ、10歳で両親を亡くすまで住んだ町です。ここで音楽の刺激を受けたはずです。バッハが7歳から3年間通ったラテン語学校には、その約200年前、マルティン・ルターも通っていました。またヴァルトブルク城は、ルターが新約聖書をドイツ語に訳した場所として有名です。
聖ゲオルゲン教会
J.S.バッハは、1685年3月23日この教会で洗礼を受けます。
J.Sバッハの父の従兄で、ヨハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)は、ここのオルガニストでした。(バッハの長兄と同じ名前ですが別人)
バッハは小さい頃きっと、ゲオルゲン教会でクリストフが弾くオルガンを聴いて育ったのでしょう。
しかしバッハが9歳(1694年)の時、母を亡くし、さらに1年も経たずして父も失います。
身寄りが無くなったバッハは、
オーアドルフでオルガニストをしていた長兄のヨハン・クリストフ・バッハ(1671-1721)に引き取られることになります。
ラテン語学校への入口
聖ゲオルゲン教会(上の写真)前の広場を反対方向に入ります。
バッハやルターが通ったラテン語学校は
現在小学校(マルティン・ルター・ギムナジウム)
となっています。
小学生達が賑やかに下校します。
この奥にはゲオルゲン教会のオルガニスト、
クリストフの小さな家があります。
ドミニコ会修道院
この写真の左側が、バッハとルターがともに通っていたラテン語学校のあった所です。
入口には碑板が掲げられています。
ルターハウス
マルティン・ルターが
ラテン語学校時代に下宿していた家。
キリスト教関係の書籍を売っています。
ヴァルトブルク城
(世界遺産)
築城が1211年に遡る、大変古く有名な城です。
アイゼナハの駅からバスがありますが、1時間に1本です。
タクシーで行くと約10ユーロ、乗り合いバスを利用すると5ユーロ位です。
歌合戦の間
中世のミンネゼンガー(吟遊詩人)が歌を競った場です。
リヒャルト・ワーグナーの歌劇《タンホイザー》に、この歌の殿堂が登場します。
案内ツアーの一員でこの部屋に入ると、
タンホイザーの「巡礼の合唱」が流れていました。
エリザベートの間
ワーグナーの《タンホイザー》に登場するエリーザベト(1207-1231)は、実在の人物で、ルートヴィヒ4世の妃でしたが、人々に施しをしたり伝染病患者の救済にあたるなどして、後に聖女(聖人)に加えられた人物です。
そのエリーザベトの絢爛豪華な部屋です。
ツアー客のドイツ人は、皆エリザベートをとても敬愛しているようでした。
私がツアーに加わる時、入場券(Eintrittskarte)はどこで買えるのですか?と聞くところを、間違ってFahrkarte(乗車券)と言うと、周りの人全員がEintritts!と直してくれて、ドイツ人の実直さを感じました。
ガイド付きツアーのルートからは外れていますが、重要な部屋です。
ヴォルムスの国会に喚問されて国外追放を科されるルターを、
ザクセンのフリードリヒ賢侯が
ここにかくまいました。
ルターはこの部屋で
10か月かけて
ギリシャ語の新約聖書を
ドイツ語に翻訳しました。
時の印刷技術のお陰で
初版、改訂版も含めて
瞬く間に聖書が広まりました。
Lutherstubeという案内表示を
見落とさないように。
バッハが15歳(1700年)から17歳まで過ごした町です。
オーアドルフで長兄ヨハン・クリストフの家に身を寄せていたゼバスチャン・バッハは、自活をするために、教会音楽監督の紹介でここリューネブルクの聖ミヒャエル教会の付属学校に、給費付き合唱団員として入ります。
オーアドルフからはるばる350Kmの道のりを、友人エルトマンとともに旅をして来ました。
聖ミヒャエル教会
バッハは、この教会付属のミヒャエル学校に給費付き合唱団員として入団します。
高さ56mの給水塔から撮影した聖ミヒャエル教会です。
聖ミヒャエル教会
バッハは、
おもに孤児などが入る
教会付属の
修道院に寄宿して、
ミヒャエル学校で
学びます。
教会の合唱団で歌うと、
僅かな給与が支給されました。
聖ミヒャエル教会
ミヒャエル教会の南側には大きな木があって、ヨハン・ゼバスチャン・バッハ広場となっています。
ミヒャエル教会は、シュッツやモンテベルディなど17世紀の教会音楽の写譜を大量に所蔵していたそうです。
若いバッハは、ここで様々な音楽を吸収したのでしょう。
ヨハン・ゼバスチャン・バッハ広場の標識
ここで昼食をとっていると、
ドイツ人の老夫婦が来て、
「君達は日本人か?
私たちは若い頃、教会の仕事で
日本に居たことがあるんだ。」
と、嬉しそうに
話しかけて来ました。
バッハを記念する碑板
ミヒャエル教会の壁には、
「J.S.バッハは、ここミヒャエル修道院特設学校の合唱団で、1700年4月から1702年8月まで歌っていた」
と書かれた碑が掲げられていました。
ミヒャエル教会内部
ちょうどコンサートの準備をしている所でした。
15歳のバッハは、
どの辺りで歌っていたのでしょうか?
Auf dem Meere
聖ミヒャエル教会から市庁舎に向かう小径
木製のクレーン
1797に建てられ、今も現存する木製クレーン。
リューネブルクは塩で栄えた町。
このクレーンで降ろした岩塩を
リューベックまで運び、
帰りはニシンを運んで、
ハンザ都市として大変栄えた町だそうです。
塩取引の広場と聖ヨハネ教会
塩の取引で町は潤ったらしく、立派な建物です。
写真左の尖塔は、バッハの当時名高かったゲオルク・ベーム(1661-1733)がオルガニストをつとめていた聖ヨハネ教会です。
バッハがベームから教えを受けていたと見られる資料が、2016年にワイマールで見つかっているそうです。
変声期となったバッハはオルガンの手ほどきを受け、オルガン曲の創作意欲が醸成されました。
バッハはこのリューネブルク時代のあと、半年ほど
ワイマールで過ごしますが、1703年18歳で
アルンシュタットにできた新しい教会のオルガニストとなります。
ホテルの部屋から見る
イルメナウ川と夜景
リューネブルクは観光地です。
夏期にエリカの花が咲く
リューネブルク・ハイデ(原野)が有名です。
レストランは夜遅くまで
賑わっていました。
1705年の10月、20歳のバッハは
アルンシュタットから約400kmの道のりを歩いて、著名なブクステフーデ(1637-1707)のオルガンを聴くために、ここリューベックのマリーエン教会にやって来ました。
マリーエン教会と北ドイツの空
近くの聖ペトリ教会の塔(エレベータ3ユーロ)から撮影したマリーエン教会。
高名なディートリヒ・ブクステフーデ(1637頃-1707)がオルガニストをつとめていた教会で、バッハは彼のオルガンを聴くために、4週間の休暇を取ってはるばる
アルンシュタットからやって来ました。
リューベックの市庁舎
北ドイツの町
リューベックは、
ハンザ同盟の中心都市として
中世に大変栄えた大都会です。
市庁舎もとても豪華な造りです。
マリーエン教会
最初の建造が1200年ごろ、というとても古い教会です。
ここも第二次大戦の爆撃を受けました。
破壊されて落ちたた鐘が、今も堂内に残されています。
マリーエン教会のオルガン
バッハは、ブクステフーデの弾くオルガンに魅せられ、
4週間の休暇の予定を、
10月から翌年2月まで16週間にまで
無断で延長し、
アルンシュタットに帰り着くと
大目玉を食らいます。
天井が非常に高く、石造りの堂内は、
非常に長い残響時間でした。
残響音の研究を長くしてきた私は、
こういう時、衝動を抑えきれなくなり、
「アッ」と叫んだり
「パンッ」と手を叩いたりして、
家内からとがめられます。
低音域で残響時間が長い、
特徴的な響きです。
この響きも、
きっとバッハを圧倒した
のだと思います。
柱を下から見上げる
=低音域で長い残響時間=
「残響時間」は普通500ヘルツ周辺の音が、途切れた時から音圧が千分の一(音のエネルギーで百万分の一)になるまでの時間で表します。
「きれいな響き」は、残響時間の長さでなく残響時間の周波数特性で決まります。
この教会は、データを調べると500ヘルツ周辺よりも、125ヘルツ周辺の低音域の方が残響時間が長く、7秒以上もあります。異様に重たいこもった音です。
柱の周囲が石で囲われている事も、その原因でしょう。威圧感のある音です。
マリーエン教会の堂内
1705年のクリスマス・シーズン、ブクステフーデのオルガン演奏と、多くの信者であふれ様々な行事が行われる大都会の教会は、20歳のバッハにとって帰ることも忘れるほど魅力的だったのでしょう。
人形劇の劇場
裏路地を歩いていると、暖かい雰囲気の人形劇場を見つけました。
旅の朝食
朝食はいつもしっかりと食べます。
鉄道の旅は楽しい
北ドイツでは朝も昼も「モイン」とか「モイン、モイン」という挨拶をするそうです。検札に来た車掌さんが「モイン」と言うのを、初めて聞きました。